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「八重の桜」白虎隊/伝習隊/会津敗因~城下奮戦

大河ドラマ『八重の桜』
 第25回「白虎隊出陣」
【大殿、白虎隊、八重…次々出陣】
 1868(慶応4)年、八重(綾瀬はるか)は数え年24歳、兄・山本覚馬(かくま 西島秀俊)41歳。
8月21日、会津藩境の母成(ぼなり)峠が新政府軍によって突破されてしまいました。翌日、会津城下に「15歳から60歳までの男子はみな城に入るように、戦じたくをととのえ急ぎ登城せよ」というお触れが出ました。
  八重「お父つぁま、わたしを、戦につれていってくなんしょ!」
 しかし、父・山本権八(松重豊)は同行を許してくれませんでした。
 
一方、会津の大殿・松平容保(かたもり 綾野剛)は前線へと出陣。年若い白虎隊の護衛を受けつつ、滝沢本陣に着陣しました。が、その時、猪苗代と会津若松をつなぐ重要地点「十六橋(じゅうろっきょう)」を敵が渡ったという知らせが…! これで「戸ノ口原(とのくちはら)」を破られたら、一気に城下に攻め込まれてしまいます。防戦のため、ついに白虎士中二番隊の出陣が決まりました。
翌8月23日 早朝、士中二番隊は敵と遭遇、銃撃戦に…!
 城下では避難を促す半鐘(はんしょう)が鳴り響いていました。
そんななか、八重は完全武装で「会津を滅ぼしに来る者達を、わたしは許さねぇ」
決戦の時が、来ました。
 
 


 
 
  歴史話☆彡
【会津の敗因、情報力のなさ。しかし、城下で奮戦】
 会津藩は兵力・軍備で劣勢だっただけではなく、残念ながら、情報戦や戦闘準備の段階でも負けていました。。。
 
1868(慶応4)年7月29日、二本松城陥落。そして、8月。会津側では、“敵は仙台に進軍するのではないか”という噂が流れていました。が、これは新政府軍による偽情報でした。薩摩参謀 伊地知正治(いじち まさはる)土佐参謀 板垣退助が率いる新政府軍およそ3000人は、8月21日、石筵口(いしむしろぐち)から母成(ぼなり)峠に侵攻。この時、母成峠には、旧幕府の伝習(でんしゅう)を中心に、会津兵・新選組・仙台兵・二本松兵、計800人程度が守備に当たっていました。
 
伝習隊はフランス式に調練・編制されており、歩兵奉行の大鳥圭介(おおとり けいすけ)が率いる最強歩兵部隊です。期待の精鋭のはずでしたが、二本松城奪還を目指して8月のうちに2回、夜襲を計画し進軍したものの2回とも山道に迷い(゚∀゚;、失敗に終わっています。ここまで方向音痴だと、ほとんど罪です。対する新政府軍は、母成峠の戦いにおいて 地元の猟師を道案内に付け、伝習隊の背後をつく迂回(うかい)作戦を成功させ、たいした損害もなく突破してしまいました。情報収集力と活用力に格段の差があったように思います。
 
会津の兵力は各地に分散されていました。本来は、どこかで開戦したらその情報が他にも伝わって援軍を送るようでなければなりません。ところが、会津側では、そのような初歩的な情報伝達さえよく考えられてなかったようです。母成峠を突破されたという情報は、ここでもまた兵士が道に迷ったせいで、なかなか他へと伝わりませんでした。勢至堂(せいしどう)峠という所に多数の会津兵がいたのですが、戦闘情報は伝わらず、猪苗代方面で火炎が上がっているのを見てようやく気づくという ありさま。
 
会津若松城への伝達も遅れました。母成峠からの一報が来たのは8月22日 午前5時頃で、戦闘開始から20時間ほども経過してしまっていたのです(馬を乗り継げば数時間の距離だそうです)。城中は混乱、ドラマでは先にやってしまいましたが、家老 西郷頼母(たのも)「責任は主君容保(かたもり)公 以下、重臣全員にある。即刻切腹すべし」と叫んで暴れ、時間が浪費されました。正午頃になってなんとか防戦の部署が決まり、午後1時、白虎士中二番隊の護衛を受けて松平容保は督戦のために滝沢村へと向かったのでした。さらに同隊は前線からの援軍要請に応じ、滝沢峠を越えて戸ノ口原(とのくちはら)へ。この隊は馬上銃(八重と同じスペンサー銃…?)も装備していたらしく、戸ノ口原の戦いで善戦しました。しかし、日没によって一時休戦。翌23日 早朝、同隊は激しい銃撃戦のすえ撤退に追い込まれました。会津側は戸ノ口原~滝沢峠を突破されてしまいます。新政府軍の進撃は速く、容保も退却を余儀無くされ、単騎で城に駆け込んだほどです。
 
この時に半鐘(はんしょう)が鳴らされ、城下に避難命令が出たのでした。理想を言えば、早めに住民を避難させて防壁・塹壕構築などの市街戦準備を行なっておくべきでしたが、“戸ノ口原は破られない、敵軍侵入はない”との希望的観測があったようで、対応が後手後手に回り混乱を招いたのでした。
 
この8月23日は午前中から夜にかけて城下で激戦となりました。会津側は混乱しているうえ老年兵・少年兵ばかりでたいした装備もなかったものの、大健闘しました。新政府軍の先鋒兵力1800人のうち、死傷者は180人にも及んだのです。会津が意地を見せてくれたのでした。あらかじめ市街戦の用意ができていれば、混乱による市民犠牲者が少なくなり、防戦ももっとうまくいったかもしれません。惜しいことでした。
 
  ~主な参考文献~
『新・歴史群像シリーズ14【幕末諸隊録】』(学習研究社)p.31~、126~、138
星亮一『会津戦争全史』(講談社選書メチエ)p.130~、146~、157
 
 


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コメント

No title

ふむふむ そうなのですね

いつもながら 解説ありがとうございます。

今も昔も 情報伝達 先見の目 運命がかわるものなのですね

No title

☆サッチさん
ナイスポチありがとうございます(^-^)

記事読んで戴きまして嬉しいです。
戊辰戦争では情報伝達や決断のスピードがかなり大きな意味をもって結果に出ました。多少間違った決断でも勢いでいけてしまうような面もあったようです。
現在への参考になりそうな事例や
歴史のifがたくさん詰まっています…!

No title

詳しい解説ありがとうございます
仰るとおり、武器だけじゃなくて情報も官軍のほうがず~~とたけていたんでしょうね。
それと薩長には木戸、大久保、西郷。そしてもう殺されたけど坂本龍馬がいましたから、先見の明があったんでしょう。
徳川のほうは260年間ず~~とぬるま湯につかってて。唯一軍事力があったのは会津藩でしたが、彼らは愚直すぎて上手く立ち回れない。
それが明暗を分けたようですね。それにしても白虎隊に限らず老若男女一丸で戦うんですから、これほど壮絶なことはありません。
ポチ

No title

今みたいなネット社会ならあっという間にいろんな情報が手に入るけどねえ。

昔はほんと、人の見識とかある意味掛けに近い予想が明暗を分けましたよね。

前~に見た大河で黒田官兵衛の闇の情報量にびっくりした覚えがあります。
どんな時代でも人が築いた絆みたいなのがキーになるんでしょうね。

オールポチ★です。

No title

こんばんは。
詳しい解説、いつもながら為になります。
本当に後手後手に回っている感じがしますよね。
橋なんていつでも落とせるように爆破準備するのが当たり前な気がしますし・・・
あと大鳥さんはどうにも頭でっかちで、実戦向きな方では無かったようですね。

No title

ウ~ん、私はドラマを見てるよりシューマイさんの記事読んだ方が楽しいな、そうなのかっているも感心します
ありがとう
んナイス~

No title

☆とん子さん
ポチありがとうございます(^ ^)

会津藩の人達は、蛤御門の変などで実戦も経験しているし、京都守護職で情報統括も学んだんじゃないかと思うのですが、
それがもう少し活かせなかったのかなぁと残念です。

薩長のように外国との独自接触がもっと盛んだったら、東北の地にも龍馬のような人物が登場していたかもしれませんね。
奥羽越にも有能な人材はいたのに、結局、西郷頼母のような人を重大局面で押し出してしまったというのが、会津(容保)の人のよさ、限界だったのかなぁ…という気がしてしまいます。いろんな意味で 頼母の存在は痛過ぎました…(゚∀゚;

白虎隊をはじめとした会津の人達は
痛ましい結果となりましたが
戦って本当に偉かったと思います…!

No title

☆Parlさん
オール ポチどうもありがとうございます(=^▽^=)

幕末当時は情報を得ることが大変だったと思いますが
それでもやっぱり情報の取捨選択が必要で、あとは決断力と速さがものを言ったと思います。
見識のある人物の決断だったら、多少間違っていても勝てる…という強引さがあったような、そんな時代だと思います(笑)

黒田官兵衛は土着の情報ネットワークの人脈をあっちこっちにつないで、いざと言う時に総動員したんでしょうね。
すごいことです…!

No title

軍制改革で薩長に対抗できる近代的な鉄砲・大砲が用意できない軍事戦略が間違いでしょう。西郷頼母が心配したとおりになって、白河総督にしたものの、頼母の経験不足よりも薩摩の作戦・兵器が勝っていた。山本覚馬の発注した銃で戦えなかった会津藩には、旧式鉄砲・刀槍で勝てると思っているのですから救いがたい。
戦争は大義より、軍事的・政治的の優劣で勝敗が決まる。薩長側からみれば、こんな楽しい戦争はない。会津は徳川幕府滅亡の象徴かもしれません。

No title

☆ハニー先輩さん
いつも読んでくださってありがとうございます(=^▽^=)

会津藩は伝令や指揮系統がどうなっていたのか、どうも疑問ですね。
ほんとに、いくら丈夫な橋と言ったって、本場会津に攻め込まれる前に工事を始めていればよかったし、
情報伝達・伝令が御粗末過ぎるし、
勝てないのに文句ばかりの西郷頼母にいつまでも引きずられてしまったりで、疑問点噴出です。

大鳥圭介のこと、詳しくは知らないのですが、日光口(宇都宮)の戦いで山川大蔵との連携はうまくいったようです。でも、二本松城奪還は散々で、母成峠の戦いでは何だかラッパを吹いていただけで大した戦果も無かったようなので、たしかに実戦向きではなかったのかもしれませんね。

No title

☆みっちゃんさん
ナイスポチありがとうございます
読んでくださってありがとうございます(=^▽^=)

歴史を調べているといろんなことが分かったような気になって(笑)
とても楽しいです(^ ^)

No title

☆池月映さん

外国と戦争した薩長と違って、会津の軍備・軍制改革が遅れたのはどうしようもありませんね。
不思議なのは、会津は実戦を経験していながら、伝令・指揮系統の改革もあんまり進んでないように見受けられることです。情報を速く伝えたり、軍をまとめたり。もう少し何とかならなかったのかなぁ…と残念でなりません。

西郷頼母の影響は強過ぎました。
山川大蔵や佐川官兵衛を中心に、さらに榎本艦隊を巻き込んで戦略を立てていれば、
勝てないまでも、あるいは がっぷり四つの接戦に持ち込めたのでは…という気がします。

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清水しゅーまい
【著書】
『車猫が出てきた! ~ノラ猫の秘密~』2018年(東京図書出版)
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